第2章
最終更新日:2026年6月26日
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第1章で見てきたように、人的資本経営が現場で機能しない背景には、「理想と実務の断絶」「プロセスの分断」「投資対効果を測る視点の不在」という構造的な問題があります。では、それらを乗り越えるために、人事は何から設計し直すべきなのでしょうか。人的資本経営を真に機能させ、人事戦略を経営戦略に直結させるためには、現状の延長線上で考える思考回路を根本から変える必要があります。
多くの企業の人事部は、日々発生する欠員への補充、法改正に伴う場当たり的な就業規則の改定、あるいは現場の不満を解消するための単発的な研修実施といった「対処療法的」な業務に追われています。こうした事後処理中心の活動は、短期的には不可欠ですが、これだけを繰り返していても組織の持続的な成長、すなわち当社が提唱する「定着と成長」の実現には繋がりません。
さらに、人事戦略を機能不全に陥らせるもう一つの要因が、各プロセスが機能ごとに分断された「個別領域最適」です。この状況下では、採用・配置・評価・育成・労務がそれぞれ別の論理で運用され、前工程での期待や判断が次工程に引き継がれないという「プロセスの断絶」が起こります。以下は、その典型例です。
| 「評価」の個別最適による断絶 | 一次評価者(直上の課長クラス)が、例えば、当該期間の業績のみを着眼し、「自部署内での序列に違和感はない」や「賞与原資の割り振りも完了した」という近視眼的な成果のみを重視(個別最適)しすぎることがあります。その結果、採用時に期待されていた「非連続な成長を促すための変革力」や「将来のリーダー候補としてのポテンシャル」が評価の対象から外れ、入社時の期待値と配属後の評価が大きく乖離してしまうという事態を招きます。 |
| 「育成」の個別最適による断絶 | 研修担当者が「受講者数」や「実施計画の達成率」を優先し、一律の教育パッケージを提供することに終始しているケースです。これは、配置担当者が本人の特性に基づいて「新たな挑戦」を促そうとしている意図とは無関係に行われるため、個人の成長スピードを鈍化させ、結果として期待された戦力化に結びつかないという乖離を生みます。 |
| 「労務・管理」の個別最適による断絶 | 労務部門が「リスク管理」や「コンプライアンスの遵守」を重視するあまり、柔軟な働き方や挑戦的なアサインメントが十分に設計されないことがあります。これが続くと、成長機会を求めて入社した人材にとって、本人と会社の双方にとって成長実感が乏しい滞留状態を生みやすくなります。 |
そこで必要となるのが、事業の「ありたい姿(未来の事業モデル)」を起点とし、そこから現在へとさかのぼる「バックキャスト」のアプローチです。5年後、10年後の自社に必要な組織・人材像をデータとして定義し、その実現のために、採用から評価、育成に至る各プロセスをどう一気通貫で繋ぎ直すべきか(=バリューチェーンの再構築)を逆算して描くことが、グランドデザインの核心となります。
グランドデザインを具体化する核心は、未来の事業を実現するために必要な「人的要件」を、主観のみに頼らず、可能な限り客観的な指標(データ)として定義することにあります。
人の能力や適性のすべてを数値で表すことは容易ではありません。しかし、定義を曖昧なままにしておくと、採用や評価の現場で「なんとなく優秀」「自社に合いそう」といった個人の主観による判断が優先され、結果として組織全体でのミスマッチを引き起こします。このリスクを最小化するために、以下の3つの要素を「測定可能な状態」まで落とし込むことが不可欠です。
| 組織像の定義 | 未来のビジネスモデルに適した組織構造(マトリクス型、プロジェクト型など)や、迅速な意思決定を可能にするデータ連携のあり方。 |
| 人物像の言語化と指標化 | 事業を推進する人材のペルソナ。単なる「優秀さ」といった定性的な表現に留めず、どのような行動が成果に繋がるのかという行動特性を、共通の評価軸として言語化・指標化します。 |
| スキル・コンピテンシーの可視化 | 必要なスキルの種類とその充足度を可能な限り数値や段階(レベル)で定義し、理想(To-Be)と現状(As-Is)のギャップを客観的に把握できる土台を作ります。 |
未来の事業推進を前提としたこれらの要件が「共通言語(データ)」として定義されて初めて、人事は「どのような人材を何名確保し、どのような成長支援を施すべきか」という問いに、経営戦略との整合性を持った根拠で答えられるようになります。そして次に必要なのが、その要件を事業の局面ごとに、どの指標で継続的に捉えるかを定めることです。
人事のグランドデザインを実効性のあるものにするためには、自社の事業がいまどの段階にあり、次にどの段階を目指しているのかを見極める必要があります。なぜなら、同じ「人的資本投資」であっても、事業の局面が変われば、求められる人材像も、優先して整えるべき仕組みも、成果として見るべき指標も変わるからです。ここでは、事業の局面を大きく4つに整理し、それぞれのフェーズで注目すべき人物像とKPIを示します。
重要なのは、人的資本KPIを全社で一律の物差しとして固定するのではなく、事業ライフステージに応じて重点を切り替えて設計することです。
| 「ゼロイチ期」 | 新たな事業仮説を構想し、市場に受け入れられる形へ磨き込むフェーズです。求められるのは、課題設定から仮説検証までを素早く回し、顧客の反応を学習に変えられる「アントレプレナー(起業家)型」の人材です。見るべきKPIは、「PoC化件数」「初期顧客の獲得数」「仮説検証サイクルの回転数」など、学習の速度と市場適合の兆しを捉える指標が中心となります。 |
| 「収益化構築期」 | 事業モデルを「売上と利益が出る形」に磨き込み、再現可能な型へ落とし込むフェーズです。求められるのは、顧客課題の解像度を高めながら提供価値を検証し、提供オペレーションを整えられる「プロダクト/オペレーション設計型」の人材です。見るべきKPIは、「リード→受注の転換率」「継続率(解約率)」「粗利率」「提供プロセスの標準化率(手順書化・自動化比率)」など、収益化の土台を固める指標が中核となります。 |
| 「拡大期」 | 収益化できた事業モデルを横展開し、組織として拡大再生産を進めるフェーズです。求められるのは、個人の属人的な頑張りに依存せず、成果の出る型を標準化し、現場へ展開していける「標準化・展開型」の人材です。見るべきKPIは、「1人あたり利益」「労働生産性」「マネジャーあたりの管掌人数」「早期戦力化率」など、拡大局面における再現性と生産性を測る指標が中核となります。 |
| 「再構築期」 | 環境変化に合わせて既存事業を組み替え、次の成長の土台を作り直すフェーズです。人的資本の設計思想は「収益化構築期」と地続きで、基礎となる人物像やKPIも共通項が多い一方で、ここでは「何を残し、何を変えるか」という意思決定に加え、既存人材をどう再配置し、どう再学習につなげるかが重要になります。求められるのは、既存の強みを見極めつつ、新たな役割や事業要件への移行を推進できる「転換推進型」の人材です。見るべきKPIは、「既存顧客の維持率」「新領域売上比率」「事業ポートフォリオの粗利改善」「配置転換後の立ち上がり期間」など、移行の成果と適応の進み具合を測る指標が中心になります。 |
このように、人的資本KPIは単一の物差しで固定的に捉えるのではなく、事業フェーズに応じて重視すべき指標を切り替えて設計する必要があります。重要なのは、採用・配置・評価・育成をそれぞれの機能最適で設計するのではなく、事業が次のフェーズへ進むために必要な人材投資として一貫してつなげることです。そうすることで、はじめて全社戦略に合致した人事のグランドデザインが実効性を持ちます。
しかし、事業ライフステージごとに適切な人的資本KPIを定義しただけでは、変革は前に進みません。それらのKPIを継続的かつ正確に観測するためには、そもそも何を、どのタイミングで、誰が入力するのかという「インプット情報の設計」が不可欠です。人事を「事業成長を牽引する戦略的投資部門」へと変革するためには、データの「収集方法(インプット)」とその「精度」を厳密に設計しなければなりません。不正確なデータからは、誤った意思決定しか生まれないからです。
多くの企業において、人事データは断片的な「結果の集計(アウトプット)」に留まっています。しかし、バックキャストに基づいた変革を進めるためには、採用・配置・評価・育成といった各プロセスで、結果に至るまでの経緯を捉えるインプット情報の定義が不可欠です。
例えば、採用活動における辞退の真因や面接プロセスでの候補者の反応、配属後の立ち上がり状況、評価面談で確認された課題、育成施策の受講前後での行動変化といった「行動・状態データ」を正確に記録し、システムに蓄積していく必要があります。これらの事実に基づく正確なインプットがあって初めて、描いたグランドデザインと現状とのギャップを「対処療法」ではない論理的なアプローチで埋め、投資対効果を測定することが可能になります。
次章では、このように定義・蓄積されたインプットデータをもとに、採用から定着に至る人事プロセスをどのように一つの価値連鎖として捉え直し、どこに断絶やボトルネックがあるのかを「人事バリューチェーン」というフレームワークで診断していくべきかを詳述します。
→ 第3章:診断フレームワーク「人事バリューチェーン」による価値連鎖の再構築
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